【このエントリーはCNET読者ブログ(2010年6月閉鎖)に掲載していたものです】
ジャパン・ソサエティーと朝日新聞社の主催によるジャパン・ソサエティー創立100周年記念シンポジウム「創造の作り手・創造の届け手」を聞きに行った。
ジャパン・ソサエティーは米国最大の日米交流団体。日米の相互理解のため、政治・経済・文化・教育など幅広い分野で活動している非営利団体。ジョン・D・ロックフェラー3世が理事長を務めていたこともある。
シンポジウムの前半はライオンキングの舞台演出などで著名な舞台演出家ジュリー・テイモア氏と宮本亜門氏の対談、後半はゲームクリエーターの水口哲也氏、日本テレビの土屋敏男氏、アスキー取締役の遠藤諭氏による討論が行われた。(後半のレポートは別途掲載した)
そのように意図されたものかはわからないが、全体を通して感じられたメッセージは、「表現手法としてのメディアはそれぞれ特性が異なる」ということだ。こう書くと当たり前に感じられるが、その実、忘れられやすい事柄でもある。例えば、映画やラジオはテレビの登場によって淘汰されるといわれた時代もあった。確かにある時のピークはすぎたかもしれないが、映画もラジオも残っている。それはなぜか。言うまでもなく、映画には(テレビにはない)大きなスクリーンと音響による臨場感や非日常性があるし、ラジオには聴覚メディア特有の「ながら視聴(?)」に最適というメリットがあるからだ。
■メディアとしての「演劇」
前半の対談では「演劇」というメディアの特性が語られた。
ジュリー・テイモア氏は「テレビでは『夕日』を表現しようと思ったら、実際の夕日の映像を映すしかありません。でも、舞台では布1枚で『夕日』や『草原』を作ることができます。そこにあるのは『布』でも観客はそれぞれのイマジネーションを膨らませることができる。こうした『様式化』が可能なのが演劇の特徴です。目に見えるものだけでなく、ライブでイメージを通して理解できるのです。」同氏は同様の例として、舞台「ライオンキング」でとられた「ダブルイベント」を挙げた。これは動物のマスクをした人間がどちらかのみを演じるのではなく、ある時はそこにいる人間であり、ある時はマスクの動物であるという二重の表現を指す。「こうした表現のヒントは日本やインドネシアの舞台文化から得たものです」(同氏)
宮本亜門氏も同様に1本の棒をさまざまなものに見立てることができる演劇に対する、テレビや映画の違いを挙げた。その上、両名は共にこれは単にツールの性質の違いでしかないと話している。例えば、「編集」という表現はリアルタイムで進む演劇にはないものだ。テレビのような家庭で(もしくは屋外で)気軽に見られる手軽さも演劇にはない点だろう。
しかし、だからこそ、演劇ができることがあるのかもしれない。宮本亜門氏は最近の風潮について「画面を通してではなく、生の言葉、生の空間、生の思いを感じたいという要望が強くなってきている気がする。(そうした言葉ではないものを表現できる演劇は)むしろ面白い時期に入ってきたと感じています」と語った。
■引き出しの「引き出しかた」を提案するのが演出家
次に演出家としての考えに話が進む。
宮本亜門氏は「演出家はある種、観客を『操作』するという立場では?」という質問に対し、「操作ではなく、観客の中にすでにある『引き出し』の『引き出しかた』を提案するのが演出家」だと答える。ジュリー・テイモア氏も「(演劇によって)文化が変化することによって新しい自分を見ることができる」という点を挙げ、感情の源は観客自身の中にあるとした。
最後に、権利問題はあるにせよ、ネットで多くの動画コンテンツが視聴されている現状について質問がされた。テクノロジーによって情報は流通しやすくなったが、同時にクオリティの問題や編集自体が変えられることによって、もともとコンテンツがもっていたメッセージが変わってしまうことがある。作り手として複雑な部分もあるようだが、これについて「受け手がそれぞれの解釈を持っていい」という意見だった。
受け手がある作品を解釈し、それを再度発信、それをまた別の受け手が解釈して、という流れはニコニコ動画などでユーザーレベルで実際さかんに起きている。
もう少しいえば、権利的な問題が生じやすいこうした動きをよりスムーズに機能させるための仕組みとしてクリエイティブ・コモンズなどがあるのだろう。
逆に演劇の分野にもこうした「相互解釈」のような取り組みがあれば面白いと感じた。演劇分野に詳しくないのでもしかしたらあるのかもしれない。ぜひともみてみたいと感じた。
続く後半のレポートは以下に。
バーチャルワールドというメディアの特性(水口哲也氏/土屋敏男氏/遠藤諭氏の討論を聞いて)
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