「積ん読」状態になっていた本書。息抜きと思いながらなぜか集中して読みました。
■「ネトゲ廃人」の根底はすべてのコミュニティにいえること?
結論として、これも一面として正しいんだろうけど、いまいちセンセーショナルに過ぎる気がしています。当たり前ですが、あくまで「ネトゲ廃人」というテーマの書籍ゆえ、そういった事例を集めているということを認識して読んだほうがよいです。
というのは、僕自身もセカンドライフに毎晩数時間インして友人たちと遊んでいたりしたので、はまる気持ちもわかるからというのもあります。セカンドライフがいわゆる「ネトゲ(ネットゲーム)」かというとちょっと疑問もありますが、ここではいわゆるネトゲを含め、オンラインコミュニティという意味で捉えました。コミュニティの価値観にゲームが絡んでいるというイメージです。ある価値観を共有することはコミュニティが生まれるひとつの前提でもあります。そして、あるコミュニティの価値観をコミュニティの外からみると、理解が難しい場合もあります。思想、宗教などがいい例です。
とすれば、やはり「ネトゲ廃人」で登場した人の身におきたことは、すべてのコミュニティでいえることなんだろうと思えます。ネットだから、ゲームだから、ではなく、コミュニティとの距離のバランスをどう取っていくか、それがネトゲではまだ定まっていません。
世間の他のコミュニティとくらべ、ゲームはまだ一般に出始めて四半世紀かそこらの新しい価値観です。一般的に価値観が定まっていないために、当事者もそうした価値観とどう付き合うのがよいのか、また、周りの人もそうした価値観を持つ人にどう対応すればいいのか、それが安定するためには、第1世代が孫を持つくらいまで待たなければならないのではと考えています。
■ゲームの達成感を肯定する
そのために必要なのは「ゲームの達成感を肯定する」ということだと思います。
「ピアノばっかりやっていた」「野球ばっかりやっていた」「本ばかり読んでいた」「映画ばかり観ていた」これらの言葉が「ゲームばかりやっていた」と比べて否定的なニュアンスを持たないのは、まわりがその楽しみや達成感を理解していて、肯定的に位置づけられているからです。
本書の終わりのほうでハードゲーマーの人たちが
「ゲームばかりやってきたぼくが言うのは変ですが・・・」
「こんな私が言うのは、おかしいんですけど・・・」
「ぼくみたいな者が言うのは、何なのですが・・・」
といいながら、子供への影響に警鐘を鳴らしたということですが、違法でもなんでもないことを楽しみすぎたというだけで、周りに迷惑をかけたことを反省こそすれ、こんな風に自虐的にならなければならなかったのは彼ら・彼女らが味わってきた「達成感」をコミュニティの外の人が誰も理解してあげなかったからではないかと思うのです。自分の経験からいっても、(なんでもやりすぎはよくない、ということも含め、)ゲームからも学んだことはたくさんあったはずです。
漫画についてはようやくそうした兆しがでてきましたが、もっとゲームの体験も評価されていいのではないかと感じます。
ただ、このためにはもちろんゲームの供給側も成長しなければなりません。達成感を胸をはって肯定できるゲームをデザインし続けてほしいと思っています。エデュテイメント(教育ゲーム)やシリアスゲームという冠をかぶせなくても、それはできるはずです。
インタビュアーの芦崎治さん(「崎」は正確には「山」偏に「立」と「可」)は、本書がネトゲ否定ありきで書かれたのではなく、ハードゲーマーである彼ら・彼女らがそう言っている、という旨を記していましたが、そもそもゲームに対する周りの目によって彼ら・彼女ら自身の価値観も歪められている可能性にも着目してほしいと感じました。
■インタビューを受ける日は「ハレ」である
その点も含め、芦崎さんが彼ら・彼女らを本当の意味では理解できていないからなのではないかと思ってしまったのは、あとがきの以下の部分を読んだときです。
待ち合わせ場所に行くと、元ネトゲ廃人たちは小奇麗な格好をしてきた。ふだん着のままで良さそうな最寄り駅に近い喫茶店でも、女性ハードゲーマーはオシャレをして現われた。
柳田國男の民俗学で、ハレとケという概念がある。ハレ(晴れ)はお祝い、お祭り、儀礼や年中行事などの非日常を指し、ケ(褻)は普通の生活の日常を指している。
インドアな彼女たちにとって、徒歩十数分の最寄り駅への外出でさえハレになるのだ。
「書籍のインタビュー」は普通の人にとっては十分に「ハレ」の日です。写真撮影があってもなくても、多少小奇麗にしても不思議ではありません。そうした可能性に気を回さずに「インドアな彼女たちにとって、徒歩十数分の最寄り駅への外出でさえハレになるのだ。」と結論付けてしまっているのは、残念です。
「これも一面である」という前提で読めば、本書は「ネトゲ廃人」を理解する書としてためになります。ただ、センセーショナルなニュースはセンセーショナルであるためにニュースになるということと同様に、これですべてのネットゲームユーザーが定義されるわけではないということは十分に理解しておく必要があります。
・・・うーん、なんかやたら硬い書評になってしまった。。。
「オンラインゲーム白書2009」に寄稿しています。よろしければどうぞ!お高いですが(汗)
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