米Wiredの記事を発端とした騒動を林信行さんのTwitterをチェックしながら見守っていた。ともあれ、現在はおよそ落ち着いたようでなによりです。
そしてこの件を受けて投稿された林信行さんのエントリー「nobilog2: マスコミもブログも、兜の緒を締める頃合い!?」だが、
テレビだって、ラジオだって、インターネットが普及したから不要になるわけではなく、インターネット全盛時代だからこその存在の仕方って、考えられるんじゃないかと思う。
via nobilog2: マスコミもブログも、兜の緒を締める頃合い!?
という部分に同意。
一覧性に優れる新聞や雑誌といった紙メディア、使うのは聴覚のみであるために「ながら消費」に適したラジオ、大画面だけでなく高度な3D映写技術も取り込み始めた臨場感に優れる映画など、それぞれに利点がある。
そして、人々がそうした媒体から情報を受け取るときには上記に示す媒体ごとの性格以外にも感じている価値があると思う。マーシャル・マクルーハンの「メディアはメッセージである」という主張を持ち出すまでもなく(←でも持ち出した)、それは私たちがテレビやラジオ、雑誌といったメディアに対して持っている、ある「感じ」のことだ。
日本テレビ放送網取締役会議長の氏家齊一郎氏が東洋経済のインタビューでテレビ広告現象の背景として「インターネットの台頭も大きな構造変化ではないですか」と問われ、こう答えている。
それは違う。多くの人が誤解しているが、インターネットはしょせんハード。問題は、そこにどういうソフトを流すか、だ。たとえばニュース番組。そのソフトの価値を決めるのは、ニュースを集めて選択して価値判断して流す主体が誰なのか、ということ。読売でいえば150年新聞をつくってきた信用であり、その信用と一緒になって55年番組をつくってきた日本テレビの信用。これを直ちにやろうと思っても、何兆円かけたってできない。
via 氏家齊一郎・日本テレビ放送網取締役会議長――テレビ広告はさらに減る、生き残るのは2~3社だ(2) | インタビュー | 投資・経済・ビジネスの東洋経済オンライン
ただ、インターネット自体がこうした信用を得ることが難しいだろう。氏家氏も指摘するように信用を得るうえで重要なのはその情報を「流す主体が誰なのか」ということだ。以前のエントリー「機能としてのマスメディアと流通経路としてのインターネット – Communication for the rest of us」でも触れたように、インターネットでは機能としてのマスメディア、企業、団体、個人、その他もろもろあらゆる主体がコンテンツ提供者となっている。一定の参入障壁が存在し、おのずと情報提供主体が固定化することで媒体の信用度平均を上げることができたテレビや新聞とは違う。
そう、違うのだ。
ここでいう違いは優劣を指すものではない。違うからこそ、それぞれに存在価値がある。媒体である以上、消費者の限りあるアテンションを取り合わなければいけないという関係はあるかもしれない。しかし、そうであれば媒体の特徴を生かすことで、より深い接触体験を作り出せばよいと思っている。それぞれを突き詰めて考え、位置づけることでメディア・ミックスの効果も最大化できるはずだ。
もちろん、それが簡単でないこともわかっているのだが・・・。
というわけで、少々概念的な話になってきてしまったので、この辺で。
以上、自分の肝に銘じておきたい。
最新コメント